「アメリカン・パイ」(1999年)という映画があります。これはジャンルとしては青春セックスバカコメディに属する映画です。
このジャンルにどんな文体が必要か、このジャンルを面白くするための的確な演出とはどんなものかというと、それはズバリ、勢いでしょう。猥雑な勢い。映画としての由緒正しさなんか全く無視してOK。要は、どこまで弾けさせられるかが勝負になるわけで、そこでは大げさで騒々しい演技も、気ぜわしく見苦しいカメラワークも、常軌を逸した音量や意味不明に感じるオーバーダビングによるサウンドも、全て肯定されます。つまり美とか品格は全く問題視されないんですね、この青春セックスバカコメディでは。猥雑な活力と笑いが妨げられてしまうのなら、そんなものは喜んで捨て去る。むしろ捨て去ることでこのジャンルの美と品格が維持される。そういった類のジャンルだと思います。
もうちょっと具体的にイメージするためには、鈴木則文「パンツの穴」(1984年)を思い出してもらえば良いと思います。“青春”を取ってセックスバカコメディまで範囲を広げれば、マエストロ鈴木の「トラック野郎」シリーズ、野田幸男「不良番長」シリーズまで思い起こされますね。日本はこのジャンルの先進国かもしれん。
さて、「アメリカン・パイ」ですが、これが非常に奇妙な印象を受ける映画なんですよ。
高校生4人組がハイスクール卒業までに童貞も卒業するため競争を繰り広げるという、青春セックスバカコメディとしてこれ以上の題材は無いと思われる映画にもかかわらず、実際に見てみると、なぜだか弾けが足りないような気がする。
なぜなのか? 考えているうちに、この映画には、このジャンルを活気づけ正当化するための文体、すなわち猥雑な勢いが欠如しているのではないかと思い当たったんですね。欠如というとちょっと違うかもしれません。いや、欠如であることには変わりは無いけれど、それが戦略的な欠如のような印象を受けるんです。“あえて”猥雑な勢いではなく由緒正さを選択したというような。つまり、それほどこの映画の文体というのは、映画として由緒正しいものだと感じたんですよ。
具体的な一例をあげるとパーティーシーン。実に的確なクレーンワークと、それとは気づかないほど控えめなワンシーンワンカットに近い超長回しによって、パーティーの模様を描出するあたり。その中で主人公のマヌケなエピソードがサラリと描かれ、ここぞという瞬間には、カットインアクション(アクションつなぎ)を使う。なんか、非常にセンシティヴな演出だと思ったんですね。実はこのパーティーシーンなんか、いきなり「ゲームの規則」まで連なってるようなイメージまで抱いてしまいましたから。
役者の演技にしても同様、どこまでアホなことできるかで勝負したくなる題材にもかかわらず、演出家が相当コントロールしているような気がしました。
映画の演出としては極めて由緒正しいものである。逆にそれによって、青春セックスバカコメディとしてはうまくいってないんじゃないか。つまり題材と演出のミスマッチ。奇妙な印象を受けたのはそのあたりに原因があるのではないかと思いました。
「アメリカン・パイ」の監督はポール・ウェイツ。制作がクリス・ウェイツ。ウェイツ兄弟の名を初めて知った映画でした(ワイツ兄弟との読み方もある)。
この人たちは、違う題材でもっと面白い映画を作るかもしれないなぁと何となく感じたのですが、その予感みたいなもんが当たった!と思ったのが、「アバウト・ア・ボーイ」でした。
ハッキリ言ってこれは自分にとって、ここ数年に観た映画のベスト。
ウェイツ兄弟と「ギルバート・グレイプ」「マップ・オブ・ザ・ワールド」のライターであるピーター・ヘッジスの脚本チームは強力で、まずはとにかくストーリー自体が素晴らしい。
一人前の成熟(って何だ?とも思うが)とは無縁の、親の遺産で食ってる金持ち独身中年男が、躁鬱&イジメラレっ子の母子と知り合い交流していく。この交流を通し登場人物それぞれの欠落部分が次第に埋められていく。主人公は母親と恋仲になり結ばれ、息子の父親となり、本人も遅ればせながら大人の男に成長していく、というのが普通のパターン。ところがこれは恋仲にも父親にもならず本人もたいして成長もしない。にもかかわらず、欠落は嘘みたいに埋められて見事なハッピーエンドを迎える。
自分はラストにマジ泣きしたっス。
役者が素晴らしい。このストーリーならそれまでのキャリアをフルに生かした上で、さらに上積みを重ねられるとズバピタで読み切るヒュー・グラントの選球眼には参る。近年のマイベストアクトレス、トニ・コレットの余裕の快演にホレボレし、息子役のニコラス・ホルトの映画の中でのハマりの良さにうなる。
この映画では兄弟名義で監督にクレジットされているポール&クリスの演出は、「アメリカン・パイ」とは違い見事に題材とマッチしています。というよりも、そうだよな本来の資質はここにあったんだよなという感じ。
由緒の正しさが、作品をほかには変えがたい何ものかに昇華させるとは必ずしも言えないのだけれど、ここでは演出の由緒正しさこそが、生きてる映画、血が通った映画を生み出す原動力になっていると思います。これは凄く貴重な映画なのかもしれません。
印象に残るのは、ワイプの多用。ワイプの歴史的役割みたいなものはとっくに終わっていて、すでに陳腐化したテクニックになっているけど、それを血が通った技法としてよみがえらせて、効果的に使っている。こういうのは静的なコンテからは絶対に出てこない発想でしょう。映画全体を運動体として肉体的に把握している人にしかできないことだと思いました。そういう意味で、思い出したのは、フランソワ・トリュフォーが孤独によみがえらせたアイリスイン、アイリスアウトのこと(トリュフォーのさらに40年後に中田秀夫が「ガラスの脳」で狂い咲きのようによみがえらせて感動しましたが)。
あらためてウェイツ兄弟の由緒正しさを痛感した次第です。
知識があるからよみがえらせるというのとはちょっと違う。ここで考える由緒正しさっていうのは、必ずしも知識によって裏づけられるものではない。そうじゃなくって、さっきも言ったように、映画全体を運動体として肉体的に把握している人だけが時空を超えて受発信してしまうような波動、そういったものが由緒正しさなのではないかと感じました。
あと、これは余談の部類に入るかもしれませんが、調べてみたら、ウェイツ兄弟の母親って、ダグラス・サークの「悲しみは空の彼方に」にファニタ・ムーアの混血の娘役(といっても白人ですが)で出ていたスーザン・コーナーなんですね。