面白い映画教えます

アカルイミライ

許すと言われて泣いちゃいました

黒沢清監督の『アカルイミライ』観たんですよ。いやこれがね、私は面白かったんですよ。っていうか、結構マジで感動しちゃったんですけどね。一緒に観てたみとんも感動しちゃって「なんや、黒沢清ってスゴイんやな〜」なんて今ごろになって言ってましたけど(笑)。後半の藤竜也とオダギリジョーがぶつかり合うあたりから、グンとのめり込みましたねえ。

それで『曖昧な未来、黒沢清』っていうドキュメンタリーを観てたらですね、何と黒沢清監督がですね、「この『アカルイミライ』の違う世代間の人間同士の葛藤の物語の発想は、ロバート・アルドリッチ(黒沢さんはオルドリッチと呼んでますが)の『北国の帝王』を元(基)にした」、みたいなことをおっしゃってたんですよ。これには驚かされました・・・。なるほど、『アカルイミライ』は現代日本の東京を舞台にした黒沢清版『北国の帝王』だったのか! と・・・。そう考えると私はイケナイと思いつつも、ますますジーンときちゃいまして・・・。

あのタイトルバックにつながるラストカットとか私はかなりマジで感動しちゃいました。確かに若干、前半はタルイ部分もあるんですけどね・・・。でも、あの後半の藤竜也とオダギリジョーがぶつかり合うあたりから、もう何かとめどなく引き込まれたんですよ。それで、あの「許すよ。君たちすべてを許す」っていう藤竜也のセリフでちょっと泣きそうになっちゃいました・・・。あと、あの河と海の境界?のところで、藤竜也が水の中に入っていって、それで、倒れるでしょう・・・。あそこ、マジでスゴかったんですけどね・・。

『アカルイミライ』と『ニンゲン合格』、何かこの2本は、どうも私にとって、「個人的にスペシャルな黒沢清の映画」なのかもしれませんねえ・・・。何で感動したのか・・・正直、私自身、わかんないっす・・・。ただ、やはり『アカルイミライ』は「許すよ。君たち全てを許す」っていうセリフのところ、それから『ニンゲン合格』は「オレ、存在した?」ってセリフのところですね。このセリフに思わずグッとこみ上げそうになってしまうんですよ・・・。何かグッと胸が締め付けられるような・・・。何なんでしょうかねえ・・・。これは・・・。やっぱり普段はそういうことをやらない黒沢清がそういうセリフを言わせた、そういう映画を撮ったから・・・なのか・・・それとも単純に感動したのか・・・今の私にはまだわかんないっすねえ・・・。

しかも『アカルイミライ』は、ラストカットを観てですね、私は『ニンゲン合格』よりさらに新しい黒沢清の映画作家としての局面を発見したようなカンジだったんですよ。

なんつーか、黒沢さんも言わばそもそも映画原理主義の最たる人だったというか、基本的には今でも映画原理主義の人ですよね。その人が、その映画原理主義を踏まえた上で、あえてああいうわりとストレートな描き方をしてああいう映画を作ったっていうのはね、やはり映画原理主義を通過してない、あるいは踏まえないで同じようなことやってる(人の映画)のとは明らかに違うのでは、と私は思うんですよね。まあ、そんなこと私が書くまでもないかもしれませんが・・・。

で、その映画原理主義を踏まえた上で、あえてああいうわりとストレートな描き方をしてああいう映画を作ったっていうのが、また私としては、すごーく映画作家として共感しちゃったところだったんですよねえ・・・。まあ、もちろん私が黒沢さんと同レベルだなんてことじゃありませんけれど。同じだなんて、とんでもないですけどね。私がやろうとしていることを黒沢さんが先に世に出て第一線に行ってやられている、そういう意味での共感ですね。

(おもてとしひこ)

ダサさギリギリがたまらない

『アカルイミライ』は、今後の黒沢清の変貌をすごく予感させる作品だと思いました。はしたないくらいのことを臆面もなくやってがんがんメジャーに行って欲しいと、この作品を見て思いました。

黒沢さんは、いったん、やりたいことはやっちゃったんじゃないかと思います。やりたいことを吐き出しちゃったあとで、でも、あの映画があれだけヒットしたのは、演出とか、いつのまにかもう名人の域に達しているからだと思うんです。

黒沢さんは、敢えてユルくしてたのか、そうせざるを得なかったのか判りませんが、初期の頃は、ユルかった。ユルさの魅力があった。

ユルさの魅力をユルいまま切磋琢磨して行った人が、例えばトリュフォーみたいな人だったとしたら、黒沢さんは、構成やなんかはまだユルさを計算しているところはあるけれど、演出のレベルでは、精緻さを達成してしまったように思います。

タイミングとかフレーミング、音楽……。一言で云うと、映画の呼吸を体得してしまったんですよ。

けれど、演出のレヴェルではそうなんですが、黒沢さんは、トリュフォーやカサヴェテスがするようには愛を描いて来なかったんです。二項対立のパロディみたいなことにずっと関心があって、男女の愛も、二項対立の闘争として捉え本当の意味での対立の葛藤をすり抜けるみたいな感じなのかな。

蓮實重彦的な「宙づり」みたなことにずっと関心があって、作品を撮ってこられたんじゃないでしょうか。

だから、『降霊』は面白かったです。アレは、夫婦が協力する話でしょ。夫婦の愛の話だったら、ドン・シーゲルの『突破口!』見たいに、最初にどっちかが死んじゃうとか、なんかそういうすり抜け方をするのかと思ったら、なんだか、あの夫婦はちゃんと愛し合っていて、その上で身に降りかかった事件を解決しようとしている。

『アカルイミライ』には、映画の呼吸を体得してしまった黒沢清のためらいのようなものを感じました。黒沢さんが手がけた作品は、ジャンルとしては範囲が広いけれど、実は、黒沢さんは黒沢さんの映画しか撮って来なかったわけです。

ずっと黒沢清バリアーみたいなのがあって、そのバリアーの幅を広げながら、作品の幅を広げて行ったような感じですが、実は、そんなバリアーなくてもいいんじゃないか。自分が意識しなくてもどんなモノを撮っても、それは黒沢清の映画なんだと、周りが勝手に認知するだろう、みたいな。なんか、そんなことをこれからやって行くんじゃないかと、そう感じたんです。

『アカルイミライ』は、なんか生意気みたいな男の子を描いたでしょ。ある意味では、青春映画ですよね。世代間を描いたのはその通りだけれども、オッサンのことは今までも描いていた。男の子の意味もなくイライラするような感じは、初めて演出したんじゃないかな。

そういう、描いてこなかったものを描いたところで、「あ、挑戦してる!」というところで、評価が停まってしまっています。

クレーンアップしていくとクラゲがバーッているじゃないですか?
藤達也の演技と併せて、あれってダサさギリギリだと思うんですよね。ぼくって、ダサさギリギリのものがすごく好きみたいで、今後の黒沢さんには、そういう意味でも期待しています。

(つジ)

ストレートさがハマってない

もう一度『アカルイミライ』を見直してから書こうと思っていたのですが、DVDを見始めると毎回、何故か浅野忠信が××した後から眠くなってしまい、そこで中断ということが度重なっていました。そして見直し4回目にしてやっと最後まで見ることができましたので、ここに報告します。

今までやらなかったことを積極的にやろうとしている黒沢清の姿勢は分かるのですが、やはり僕にはそれがハマらなかったというのが正直なところでして、僕の中では『アカルイミライ』は黒沢清のワーストだと今でも思っています。うまく纏められなかったのでメモの形で書いたものを以下に記します(ネタバレしてます)。

・「唐揚げが小さい」のギャグは寒い。
・笹野高史演じる工場社長の若者に対する言動(ぎこちない、中途半端に媚びを売っているような)が、この作品の主張の仕方と似ている。
・スプリットスクリーンの使い方に疑問を感じる。
・オシャレに見えてしまう登場人物たちの衣装が最悪。
・「クラゲ=若者」という図式
・説教臭さ-「現実を見ろ〜」
・問題の台詞「私は許す 私は君を許す 私は君たち全部を許す」の「君たち」は、物語上はオダギリジョーと浅野忠信のことを指すのだろうが、「古い世代」から見た「若い世代」全般に対する言い方にも聞こえる。多分本当にそういう狙いなのだと思う。
・アルドリッチはこんなことをしたか。『北国の帝王』で世代間の対立や関係性を「許す/許さない」云々の台詞で描いたりしただろうか。

要は描き方が以前に比べてストレートになっていて、つジさんがおっしゃる「はしたないくらいのこと」全開ってことですね。それがおもてさんとは逆で僕には違和感があって駄目でした(実は『ニンゲン合格』のあの最後の台詞も僕は駄目なんです(笑))。ノンジャンルの作品を撮るとどうしてもそういうところが見て取れます。しかし本作を短縮したという海外バージョンは果たしてどうなっているのか、気になるところではありますね。

(千葉)