面白い映画教えます

カリフォルニア・ドールス

これはマジックである

この映画の凄さの一端はショット構成の独創性にあるということをあらためて確認しました。
この言い方が判りにくければ、ショットの配列の特異性と言い換えても良い。
しかしこれも判りにくいような気がするので、この際、少々意味は違ってしまうかもしれないが、カッティングのオリジナリティと言い切ってしまっても構いません。

ほとんどの映画は、次にどんなショットが続くのか何となく推測できます。
しかし、このロバート・アルドリッチの遺作においては、そういった経験則を元にした推測は屁のつっかえ棒にもなりません。
このショットの次にはおそらくこんなショットが続くだろうといった読みは、ほぼ完璧に裏切られます。
次にどんなショットが続くか見当もつかない。つまり全く先が読めない。

陳腐なたとえかもしれないけど、一度完成させたパズルをメチャメチャにバラした後、その一片一片を再度埋めていく様を目の前で披露されている気分とでもいうような。
しかもその再現行為においては、効率性への配慮が全くないような気が。
つまり一片一片を然るべきスペースにスイスイサクサク埋めていくのではなく、変な場所に置いてみたり、いったんズレた所に配置してから直してみたりと、とにかくなかなか形にならない感じです。
で、それがここまで徹底されていると、そもそもこの映画は構築や完成を志向していないのではないかという気さえしてきます。
むしろ解体を志向しているのではないか、と。

重ねてめんどくさい印象論を続けると、この映画は何か一点にフォーカス絞っていくような造りにはなってないんですよね。
唯一、ピーター・フォークと黒髪の方の恋愛話というか男女の話のあたりを除くと、シンボライズしてくような構造じゃなく、拡散させていく造りになっているような気がします。
拡散させていく造りっていう観点から、80年代ゴダールに近いもんを感じました。「カルメンという名の女」じゃなくて、「パッション」や「探偵」のこと。特に「探偵」かな。
勘違いかなって気がしないでもないけど。

「ドールス」の基本的な構成は、非常にシンプルで、車での移動−試合−試合前後のエピソードの繰り返しです。だから混乱する要素はほとんど無い。
ところが、それぞれのシーンは、何かに焦点合わせて見るのを拒否するような造りになっている。
混乱とまでいかないが、あるイメージに安心して寄り掛かって見ることができないんですね。
これ、何かなあと考えんだけど、まずカット数が非常に多い。ところがアップが少ない。人物撮るとき最大寄ってもせいぜいバストショットでしょう。引きが多くてカット数が多いのが、原因のひとつかなあと。

あと唐突なカットの挿入や唐突なアングルの導入も多い。
ミミ萩原とジャンボ堀のマネージャーが、階段に立って双眼鏡で試合見てるカットの入れ方や、真上からのアングルの入れ方とか、まったく予想もしてなかったカットの連続で構成されてる。
その辺が先に言ったような、先の読めなさ、なかなか形にならないパズルってあたりにつながるのかもしれませんね。
全体はシンプルなのに、何か見てる方が置いてかれるような造りになってるところで、「探偵」を想起させられたってのもあると思います。

安定感という意味から言えば、むしろ若いときの作品の方が上でしょう。たとえば「アパッチ」(54年)なんかと比べると、こっちの方がはるかに未熟な印象を受けるんですね。
しかし、そのこと自体が非常にスリリングなんです。
映画が組み立てられていく過程を目の前で見るスリルとでも言うか…

クライマックスの20分を除くと、2人の女子レスラーとマネージャーの旅の映画であり、ストーリー上、特に複雑なところは無い、むしろ単純であると言っても良い。にもかかわらず、拡散してく造りと、そこから来る独創的なショット構成によって、非常に難解な印象を受けます。

ところがクライマックスのホテルマッチに至り、その難解さが突如、解消される気がするんですね。
それまでのシーンが、仮に解体を志向していたとして、ここに至り映画は構築へとシフトチェンジしたように思えるほど。
ところがよくよく見ると、決して解体志向みたいなものが放棄されているわけではなく、このホテルマッチのシーンにおいても独創的なショット構成は継続しているんです。
では、なぜ解体に見えないのか?

解体=構築?
だとしたらマジックですよね。
クライマックス20分とそこまでのシーンの質的差異の精緻な分析が必要です。
ロバート・アルドリッチがその最晩年に手に入れたものは、途轍もなく巨大なものかもしれません。

(オイカワ)