監督中田秀夫というだけで、ビデオ屋ではホラーコーナーに置いてあったり、パッケージではサイコサスペンスと謳ったりしているが、この映画はホラーでもサイコサスペンスでもない。
これは色と欲映画の佳作だ。
ジョセフ・ロージー、小沼勝といった特異な映画作家のドキュメンタリーを撮っているくらいだから、中田秀夫は映画狂に違いない。しかし、彼が監督した劇映画からはフィルムセンターやアテネフランセの匂いはしない。
邦画だけど、新宿パレス(※注)の匂いがする。そこがうれしい。
興味の対象も、バックボーンも、世代も、まるで共通点がない人間たちが集まる、あの懐かしい劇場(こや)の匂いがするのだ。
「リング」や「女優霊」などのホラーはもちろんのこと、「ガラスの脳」というかわいらしい映画でさえも、そんな劇場の匂い、すなわち、いい意味での下世話さ、俗っぽさに裏付けれているような気がする。
この「カオス」、同じく色と欲映画の佳作であるデュエイン・クラークの「ブロンドの標的」、ジョン・ダールの「もう一度殺して」と3本立てで新橋文化で上映したい。
色と欲映画に悪女は不可欠だ。
「カオス」において悪女を演じるのは中谷美紀。
彼女には、自らをもメルトダウンさせかねない肉と魂の果てなき欲望を持て余すような極悪の風情や佇まいは無い。
全盛期の増村−若尾コンビが造形した、女の底知れなさのようなものは望むべくもない。
しかし、肉欲の臨界点を知らないまま、イメージ上のミステリアスを健気に模倣する“いたいけさ”は、なんとも言えずチャーミングであり、逆にセクシーでもある。
それが中田秀夫の計算によるものかどうかはわからない。結果的にそうなっただけかもしれない。しかし、それが「chaos カオス」を女優を見る映画として昇華させているような気がする。
色と欲映画には濡れ場も不可欠だ。
中谷のセクシーショットも当然登場する。そしてその見せ方に中田秀夫の才能を痛感した。下世話であってもゲスではない。
ゲスなのに下世話さ皆無の大林宣彦とは大違いだ。
問題はバストトップの扱い方にある。
乳首を見せるかどうか、また見せるとしたらどう見せるか、そして見せないとしたらどう処理するか。
これは映画においては大問題だと思う。
「カオス」の中谷美紀は当然、乳首NGだが、そのとき中田秀夫がセクシーショットをどのように見せているのかに注目してほしい。
NGであることが何ら不自然ではないどころか、乳首やヌードを見せなくても色と欲映画としての説得力を保持しつつ、女優を魅力的に見せられることを十分証明していると思う。
実際、ぼくは観ている間、中谷がヌードにならないことを全く忘れた。
どこをどう見せればいいかという勘所の見極めと、具体的な表現法の巧みさは、実物に当たってほしい。
予備知識をひとつ言うなら、中谷美紀が一部のシーン以外、常にノースリーブの服を着ているあたりか。
しつこいようだが、それに比べて、毎度毎度、処女でもない若手女優を処女みたいな見てくれに仕立てあげた上でひんむいて、おっぱいや尻を見せないと気が済まない大林宣彦は、何歳になっても童貞気分で、映画よりもおのれの性欲優先かよ、とあきれてしまう(ここまで徹底すればそれはそれで凄いと最近思い始めてるけど)。
そんな比較で、中田秀夫の上手さを称揚しても、なんのありがたみも無いでしょうが。