テリー・ズウィコフ監督の「ゴーストワールド」は一種のダメ人間映画だが、特に、ダメであることのメランコリー、すなわちダメランコリーを見事に描いている作品だ。
ダメランコリー的感情がどんなもので、それが人間にどのような影響を与えるかが、実にうまく表現されている。
ダメランコリー的な感情自体は、別に最近発生したわけではなく昔からあった。
しかし、なかなか理解を得られづらい感情でもあるので、映画の主題にするのは難しい面があったと思う。近年受け入れる土壌ができあがったのだろう。
しかし、こういったダメランコリーの核心を突く映画が、アメリカから出たのには少し驚いた。
出るなら日本発ではないかと、なんとなく考えていたからだ。
でも、80年代中盤のジム・ジャームッシュの登場を思い返せば、アメリカにダメランコリーの基盤があったとしても不思議ではない。
「パーマネント・バケーション」には明らかにダメランコリー的感情が脈打っていた。
しかし、ジャームッシュは、そういった感情をダイレクトに出すことは止め、純粋に映画へと向かった。映画作家として才能があり過ぎたのだ。
「ストレンジャー・ザン・パラダイス」は今から思うと、マイルドなダメランコリー映画である。寸止めでメランコリー回避した感じ。
この「ゴーストワールド」は、登場人物の造形とそれを演じる役者のアンサンブルが非常に良かった。
ソーラ・バーチは一世一代級の名演だろう。
スティーヴ・ブシェミも当然名演だが、一世一代とは無縁なところが貫禄だ。
また、ソーラ・バーチ演じるダメランコリーな女の子の横に、スカーレット・ヨハンソン演じるダメなんだけどメランコリーに行かない女の子を配置したのもポイントのひとつだ。
一応バイトして、一人暮らし始めたり。でも結局、夜は風呂上がった後テレビをボーッと見ているだけだったり。
ダメでメランコリーに行かないのだから単なるダメ子なのだが、彼女の場合、自分がダメとも思ってない。
メランコリーのベースにあるのは自意識である。彼女はほとんど無意識で行動しているからダメランコリーには行かないのだ。
この役を演じたスカーレット・ヨハンソンは、損な役回りなのだが、これが演技で、ここまで無意識を演じているのならかなり凄いと思った。
口元のボテッとしただらしない感じとか、妙な低音の声とか、ものごとにあんまりビビッドに反応しない感じの目つきとか、完全に無意識を体現していて“素”にしか見えない。
この映画のあいまいなラスト。
身もフタも無い、夢も希望も無い解釈をすれば、ダメランコリーへの批判ともとれる。
ある種の哀切さを感じ取り、ダメランコリーへの鎮魂とする解釈も可能だろう。
同時に、その全く逆、つまりダメランコリーはしぶとく生き延びるのだと見ることもできる。
見た人の生き方、考え方、感じ方などによって様々な解釈が成り立つ終わり方ではある。