『キングス&クイーン』の二度目を見た。
涙で顔がぐしゃぐしゃになった。
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先日、見直した『エル・スール』もかなり泣いた。
あのシーンが、お父さんとの最後になるなんて。
最後というのはすっかり忘れていたのに、何故泣けたの?
ゆったり流れるあの時間、あの会話、お父さんと踊った曲が隣から流れて
きた、奇蹟の時間。
祖父とお父さんは、政治的に全く逆の支持者だったが故に反目した。
そして、政権交代でお父さんは投獄。
それさえなければ、、、。それさえ、、、。一生抱えた、お父さんの
過去への思い。
けれど、「それがなかったら」主人公の女の子は、この世に生を受けて
いなかった。そんな思いがずっとくすぶっているけれど、そんなことは、
ただのひとことも言わず、けれど。
けれど質問した。
あそこまでの人生をかけて、ずっと気になってたこと。大事に胸に抱えて
誰にも言わなかった、お父さんへの思いと秘密。でも、あんな奇蹟の時間
だから、つい、そんな秘密(タブー)も、ふと口にできてしまえたのかも
知れない。何故、あんな質問を言えたのか。説明はつかないけれど、
でも、痛いほど、実は良く判る。判ってしまう。
そういう時間が、全部、映っていたシーン。
質問を告げた時のお父さんの顔。明らかにしてはいけないことが
明らかになった瞬間。うろたえるには、思いが大きすぎる。そして、
識られていたには、秘密が大きすぎる。
こんなシーンは、映画を何本見ていても、滅多に見られるもんじゃない。
作品全体で、あんなに映ってしゃべっているお母さんの印象がすごく
薄いのもとても不思議だった。どのような作用によって、あんなに
印象が薄く存在させられるんだろう。役者の顔なのか、演技なのか、
撮り方なのか。
他にない感動、他にない映画の不思議がある『エル・スール』。
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先日見直した『恋の秋』も、泣いた。
「もうだめなのよー」と、マガリがイザベルに泣きついた瞬間、
わけもなく涙がこぼれた。
それまでのあり得ようのない、複雜な究めて映画的・恣意的な
プロットを、一つ一つ叮嚀に叮嚀にじっくりと積み重ねたが故に、
「役者ベアトリスロマンの演技の涙」は、「映画としての真実の、
登場人物マガリの涙」になった、あの瞬間。
映画が、何か言い知れぬエモーションを喚起させた瞬間。
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それは、先日、実は始めて見た『冬物語』では、もっと判りやすい形で
結実する。
知らないで見たラストは、もう、途中からミエミエ。
ゼッタイに「そう終わらないワケがない」というラストに向かって
進んでいく物語が、果たして、そうなった。しかし、あの感動は、
予定調和とは違う、やはり、積み重ねた登場人物の思い、行動、
台詞があって、初めて「とってつけた」のではない、真実の瞬間に
なりえている、あのラストでは、判っているのに、涙が止まらなくなった。
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しかし、そうした言い知れぬ、エリセやロメールなどの映画の倖福せな
体験とは更に一線を画す、体験したことがない不思議な気持ちの渦に、
唐突に突き落とされるのが、『キングス&クイーン』だった。
この物語の主人公は、多分、二人。
二人の物語ではあるが、しかし、『キングス&クイーン』は、
徹頭徹尾、どこまでもずっと群像劇なのだった。
イスマエルのお父さんが、惚けてしまったその養母を見つめるまなざし
一つだけで、この作品が、いかに思いを重ね、プランを重ね、
ディティールを重ね、慎重に練られ、計画されて
作り上げられたのかが判る。
登場人物の一切が、奇妙にも的確なディティールによって支えられている。
ニュアンスに富んだあの登場人物たちの顔は、「何となくこの人はこう」
というだけでなく、恐らく、徹底的に編まれた「描かれなかったサイド・
ストーリー」に支えられているに違いない。(映画を見ただけの印象で、
資料やチラシなど一切読んでいないので間違っているかも知れませんが。)
けれど、それだけの作品なら、既に知っている。いくらでも、そういう
良質な映画はこれまでもあった。
けれど、『キングス&クイーン』は、何よりも、どこまでもどこまでも
新しい。
かつて、『恋の秋』があれば、他に映画は要らないとまで思った
『恋の秋』が、古典的な作品に色褪せて見えてしまうほど、
不思議な不思議な特別な感情で胸がいっぱいになった、残酷なまでに
そして、何かが決定的に新しい映画だった。
いわく言い難い気持ち。自分的には、今後10年は、こんな風に胸が
いっぱいになる作品には出会わないと思います。
『ママと娼婦』なんかも衝撃的だったけど、それは、あり得ないものが、
今、現在、目の前にあり得てしまっている奇蹟を目の当たりにして、
泣くしかなかったから。
けれど、『ママと娼婦』の深刻さと違い、『キングス&クイーン』には
笑いもたっぷりです。『生活の設計』と同じくらい笑えるんじゃないか。
あんなに笑えるのに、養子、ママ父、リストカットしてしまう女の子
なんていう、深刻で現代的な社会問題まで、さりげなくフォローして
いる。つまり、現代という時間の中で、人がどのように生きているの
かを見つめようとしている意志を強く感じました。
大好き。何年ぶりに心から映画を楽しんだ感じ。
イーストウッドなどのハリウッド的な撮り方では決して撮れない映画。
(※註・イーストウッドは、私的には、神にも等しい監督です)
映画の可能性をまた大きく切り開いてくれたという意味では、
他のあらゆる作品を古典にしてしまう力があるかも、と感じました。
アルノー・デプレシャン。誰も見たことのない映画をよくぞこんな風に
撮りあげたものです。
でも、こんなに面白いのに、「モシカシタラ映画マニ男くんのための
映画なのかな」と、一瞬萎えた。けれど、前の方に座ってた20代前半(?)
くらいの女の子二人組が、「めっちゃ面白かったよねー」と、
けっこう軽いノリでウキウキと話していたのに、力を得た。そう。
めっちゃ面白い映画だったー。
どんなジャンルでも、最後は愛だよね。
こうした群集劇は僕は苦手という意識を持っていて、自分としては苦手な部類の映画(ちなみにアルトマンも苦手意識がつきまとい、どうしても好きになれない監督なのです。)なのかもしれないと感じたのですが、にもかかわらず嫌いな映画なのかというと全然、そういうわけではなくて、むしろ大好きな映画で結局はあったりするのが自分としても不思議な作品でした。
僕が好きなのは、この映画の軽さなんだろうか?(自分としても整理がついていない。)
まるで映画を見たというより、親しい友人にえんえんその人の人生について話を聞いたような感じ。ふーん、そういう風にあなたは生きているんだねえと話を聞いて感慨を持つような感触を見終えて持ちました。
別にドキュメンタリーというわけでもないのに、そういう感慨を持ち得る作品というのがまた不思議なのです。
もはや恋愛映画とも言えないぐらいの「人生そのもの」?
なぜならこの映画の登場人物たちは再会しても恋愛が再熱したりするような話ではないから。
このヒロインが今度、結婚する相手とは恋愛もしてないのではないか? 「恋愛する相手」と「結婚する相手」は別なのだろうか? そんなことはたぶん実際に生きている女性の人には普遍的な、当たり前の話で、実際に「恋愛する相手」と「結婚する相手」は別という風に生きている人がいっぱいいるに違いないんだけれども(そして、そのこと自体はいささかも悪いことではないと思うし、そのような形でその人がよりよく生きれるならばそれでいいと思うわけだけれども。しかし、まあ、これは自分のことを棚にあげて言うわけであって、それでは僕みたいな人間はますます恋愛をできる可能性がなくなってしまうような気がするから自分的には困ることではあるんですけれども・笑)、そんなことを映画にしても面白くないんじゃないか?とつい思ってしまう。
しかし、『キングス&クイーン』は面白い。まったく困ったことなのである・・。(自分的には。)