「気狂いピエロ」において、女が男を裏切ることと、男が女を殺して自爆することに、因果関係はいっさい無い。当然、心理的必然性といったものも全く無い。
話は逆だ。
すべからく女は男を裏切るファムファタルだし、裏切られた男は女を殺した上で自死を遂げなければいけない。
この映画はまずそこを前提として成り立っている。そもそも発想のスタートラインの位置が違うのだ。
それはすなわち、”これは映画である”そして”これは架空の登場人物たちが繰り広げる架空の物語に過ぎない”ということに自覚的であることを意味する。
そしてゴダールは、もっともらしい理由付けによってそれを隠蔽することを拒否する。
もっともらしい理由付けを拒否するのなら、物語は定型を形式的に選択すればそれでOKじゃないか。
女が男を裏切ったので、男は女を殺して自死を遂げる。ここにあるのは因果関係である。
すべからく女は男を裏切るファムファタルだし、裏切られた男は女を殺した上で自死を遂げなければいけない。これは形式である。
だからこの映画は、一種のパロディと言えるだろう。
問題はその先だ。
1959年の「勝手にしやがれ」から60年代前半にかけて、ゴダールが常に挑み続けたこと。
それは、定型を形式的に選択しつつ、そこに魂を込めることだ。
これは相当きわどい。綱渡りのようなアクロバティックな挑戦だ。魂を込めることに失敗したときは、見るも無惨な映画の残骸をさらすことになるだろう。
「気狂いピエロ」は、その挑戦の最高の成果だ。
昔、テレビで見た日本映画に関する座談会か対談で、当時まだ新鋭だった森田芳光がこんなことを言った。
「テーマや物語は何でも構わない、『大日本帝国』(『二百三高地』だったかも)を撮れと言われれば、ぼくなりの『大日本帝国』を作ってみせる」。
森田が言い終わるか終わらないかのタイミングで、座談の相手であった大島渚は大声でこう言った。
「ナンセンス!」
あまりの一刀両断ぶりに森田が驚いて
「そうですかね…」というと、大島は再び
「ナンセンス!!」
そしてその後、こう続けた。
あなたたちにしか生み出せない新しい物語を考え、その新しい物語を撮るのでなければ意味などない。
これには感動した。20年以上経た今でも、強烈に印象に残っている。
森田芳光は、定型を形式的に選択することで映画はいくらでも作ることが可能だと言いたかったのだろう。それを自分流に料理してみせる、と。
大島渚はそれがいかに困難なことか判っていたのだ。
そして、こうも思っていたかもしれない。
お前は「気狂いピエロ」という映画があるのを知らないのか? あれを見た上で、そう言っているのか? と。
完全に勝手な推測だが。
女や人生や映画に対する固有の思いを、過剰なまでの情報に託すという方法によって、定型に魂を込めること。
今考えてみればシンプルな方法である。
しかし、思いを託す情報の選択眼と、託し方のオリジナリティは、パイオニアの強みを差し引いても、やはり圧倒的だ。
これこそ方法論で片付けられないゴダールだけの才能である。
ジャン=ポール・ベルモンドが死へと方向転換する時のあの唐突さ、あのあっけなさ、あの速さ。
あれは、あまりに過剰に込められた魂の熱量によって、映画のエンドマークをに近づけなくなっていた定型が、帳尻を合わせるために無理矢理追いつこうとしたため、いびつな動きが思わず露呈してしまった瞬間なのだろう。
思えば、「勝手にしやがれ」もそうだった。ベルモンドが追い詰めれているのはわかっていたはずだ。なのに、実際いきなり撃たれて、いきなりヨロヨロ走り出す。あの唐突さ、あのあっけなさ、あの速さ。
あの強烈な体験はゴダールでしか味わえないだろう。