
ラズロ・コバックスが撮影監督を務めた作品を観て痛感するのは、別に傑作とか名作と呼ばれる映画からじゃなくても、
ぼくたちはまだまだ学べることがいくらでもある、ということです。
そうそうあるわけじゃない傑作や名作を待ち続けるまでもなく、
いくらだって目の前に学ぶべきことはあるんですよ。学ぶべきこと、という言い方が硬ければ、楽しむ方法はいくらだってある、
と言ってもいい。もちろん、今はビデオやDVD、衛星放送などでいつでも過去の作品を観ることができる環境は整っています。
だから、傑作、名作もじゃんじゃん観た方がいい。いや、観るべきです。でも、妙なイメージや先入観にしばられて、傑作、名作
以外の映画に目が行かないとしたら、それは考えものですね。おいしいものをみすみす見逃す手はないだろうと思うんです。少な
くとも、ぼくは自分にその愚は冒すまいと言い聞かせてます。
ラズロ・コバックスがかかわった作品は、全てが傑作というわけではありません。駄作かなと思えるものさえあります。
それでも、その仕事ぶりには目をひかれますね。とにかくハッとさせられる画面がたくさんある。こちらに訴えかけてくる
力が違うんですよ。ああ、プロフェッショナルだな、と思います。
だから、学ぶべきことはいくらだってあると言っても、
それは別に仕方なく無理やり学んだフリをするわけじゃないんです。妙なイメージや先入観にしばられさえしなければ、
真のプロの仕事は黙ってても、こっちに訴えかけてくるもんですよ。それこそ、演出や脚本に目をつぶれば傑作、
そんなことがラズロ・コバックスが撮影監督をしてればあり得るんです。
でも、映画ってそれでOKだと思いますね。
監督で代表される部分が多いけど、別に監督が一番偉いってわけでもないしね。アホな監督や脚本家が偉そうにしていたら
無視して、素晴らしいものや、ためになるものがあれば、パーツパーツでかっぱらってくればいい。おいしいとこ取りですよ。
ぼくがもし映画作家やキャメラマンだったら、ラズロ・コバックスからは、まず第1に、ヒロインの撮り方を学びますね。
前回、『ベスト・フレンズ・ウェディング』について書いたように、コバックスは女優のアップを撮るのが本当にうまい。
特に、物語の上でその女優の感情が高ぶるようなシーンでの、女優の顔への光のあて方、これは必見ですよ。
監督志望やキャメラマン志望の若い人とかは必修じゃないですかね。
ぼくは親切だから、横着な人のために、
どの映画のどのシーンを観ればいいか教えちゃいますよ。
まず、前回とりあげた『ベスト・フレンズ・ウェディング』の遊覧船のシーン、これは基本です。
必ず押さえておいてください。この映画はそれ以外にも、ためになるシーンがいっぱいありますよ。
キャメロン・ディアスが最初に登場する空港ロビーのシーンのカメラワークも要マークですね。
特殊なことやってるわけじゃないですけど、ロビーの人ごみの中からキャメロン・ディアスを浮き出さ
せるように見せるために、どのタイミングで、どんな風にカメラを移動させて、どんな光をあてているかを、
よーく見てください。
あと、有名なカラオケバーのシーンもお忘れなく。
次に『夜霧のマンハッタン』(86年)。監督はアイバン・ライトマン。『ゴースト・バスターズ』(84年)で、
コバックスとライトマンはすでに1度コンビを組んでいます。
この映画は、ある案件をめぐり対立しているライバル
関係にある弁護士の男女が、そのうち惹かれあって、やがて解決に向かい共闘し、その共闘を通して愛を結実させる、
という喧嘩友達ものの王道をいくストーリーです。喧嘩友達を演じるのはロバート・レッドフォードとデブラ・ウィンガー。
レッドフォード、ちょっと歳とり過ぎかなと思いつつも、1986年時点のハリウッドでは考え得る最適のキャストでしょうね。
2人が急接近するシーンが映画の中ごろであります。そのシーンのデブラ・ウィンガーのアップを見逃さないでください。
場面は警察署から2人が出てきたところです。夜で、ふと見上げると、小雪がちらつき始めています。レッドフォードが
食事でもどうかと誘い、ウィンガーは本当は用なんか無いのに見栄を張って、というよりレッドフォードにジェラシーを
感じさせるために「彼氏と会うから」みたいなことを言って断ります。
どんな会話の流れで、そうなったかは覚えていない
んですが、レッドフォードが「君の瞳が好きだ」とか「君は瞳がきれいだ」みたいなことを言います。次のカットですね、
デブラ・ウィンガーのアップは。もちろん瞳に注目してください。そこで、どんな照明でデブラ・ウィンガーの瞳を強調
しているか。男女が急接近する時、女の瞳にどんな光をあてればいいかのお手本みたいなものです。これ、使えますよ。

『夜霧のマンハッタン』
話はちょっと脱線するかもしれませんが、いわゆる成長物語において、映画では男性が成長する場合と女性が成長する
場合では、見せ方に違いというか差があります。
たとえば同じ性的に成熟していくようなケースでも、女性の場合は
男性にくらべて、容貌上のより著しい変化が必要になってきます。つまり成長に応じて見た目が美しくならないと、
観客は成長したと実感しないし、納得しないのです。
ひとつの手法として、ヒロインが最初に画面に登場するシーンで、
まず必要以上に不細工に撮る、というものがあります。変化の振幅を増大させ、成長後の変化をより大きく感じさせる、
まあ、一種のトリックと言っていいと思います。
そのために、不細工メーク、不細工衣装、不細工演技、不細工ライティング
などを総動員させたりするわけです。やり過ぎるとシラける手法ですね。
このトリックをごくごく自然なものとして見せること
ができるかどうかは、演出力にかかっています。優れた演出家は、なんら不自然に感じさせないものです。
どういったものが
優れた演出なのかは、言葉ではうまく説明ができません。無責任な言い方かもしれないけど、優れた演出を実際に見てください
としか言いようがありません。
とりあえず、オードリー・ヘップバーン主演の作品2本を紹介しておきます。『パリの恋人』(57年、米)と
『マイ・フェア・レディ』(64年、米)です。
演出はそれぞれ、スタンリー・ドーネンとジョージ・キューカー。
オードリー・ヘップバーンの変化をどのように撮っているかを見る以外に、もうひとつポイントがあります。
それは、映画の中にヒロインを美しく変える演出家的存在の登場人物がいることです。この登場人物は、ヒロイン
よりはるかに年上の男(中年以上)でなければいけません。つまりヒロインを美へと導くだけの、豊富な人生経験、
または恋愛経験の持ち主であることが条件になってきます。
こういった「美へのグル(導師)」がこの手の成長物語
において、いかに重要な存在であるか。それは『パリの恋人』でフレッド・アステアが、『マイ・フェア・レディ』
ではレックス・ハリスンがこのキャラクターを演じていることを見ればよくわかります。
また、人生経験以外に特殊
な職能技術を持っていることも、共通項としてあげられるでしょう。『パリの恋人』のアステアは世界的なファッション
フォトグラファー、『マイ・フェア・レディ』のハリスンは言語学者です。どちらの場合も、この職能技術がヒロインの
変身に大いに寄与することになります。
こうして見て行くと、『ベスト・キッド4』は、ヒロインの成長物語としては、きわめて正統的な作品だな、
ということがわかります。
両親を亡くして、祖母と2人暮らしをする少女、孤独から気持ちがすさみ、周囲に
角を立てまくり、鷹(鷲?)だけが友だち…これがヒラリー・スワンク演じるヒロインの、映画が始まった
時点でのキャラクターです。困った祖母が旧知のミヤギに相談して、ミヤギはヒロインの更生を手助けすること
を快く引き受ける。ノリユキ・パット・モリタ演じるミヤギのキャラクターを見ると、
@ヒロインよりはるかに年上で人生経験が豊富である
Aカラテという特殊な職能技術持っている
といった具合に、まさに「美へのグル」の条件にピッタリ当てはまります(ミヤギの場合、年齢的にヒロイン
の祖父ぐらいで、ヒロインと恋愛関係に発展しないことはわかりきっているので、恋愛経験の豊富さは不問)。
というわけで、この映画が始まってだいたい10〜15分程度で、その後の展開がほぼ100%読めるわけです。
映画の最後で彼女が何を得るのかもだいたいわかってしまいます。「カラテと彼氏」ですね。ハッピーエンドを
持つ物語において、主人公はその結末で2つのものを得る。これ、鉄則です。
つまり、ある仕事上の困難な局面を
解決することが、恋愛を成就させることに直結するという作劇術ですね。
仕事というのは、本当にビジネスの場合
もあるし、主人公の身にふりかかるトラブルの場合もあるし、何らかの事件の場合もあります。
とにかく、そういった
困難や問題を解決することと、パートナーを獲得することが直結する物語の構造は、作劇上の基本中の基本です。
ぼくは勝手に「恋愛と仕事の法則」と呼んでますが、展開的には3つありまして、
@恋愛も仕事もどちらもゲット⇒ハッピーエンド
A仕事は達成できなかったが恋愛はゲット⇒ほのぼの
B恋愛はゲットできなかったが仕事は達成⇒ほろにが
見終わった後、それぞれ上記のような印象を観客に与えることになります。
『ベスト・キッド4』の場合は@です。
ミヤギの指導が始まり、平行して主人公に共感を抱く男が登場するあたりで、あ、これは「恋愛と仕事の法則@」だな、
とわかります。そうするとこの映画の楽しみ方として、物語の展開自体を楽しむということはまずありえない。
焦点となるのは、このありふれた物語をいかに語っているか、いかに見せているのかというあたりになりますね。
中でもポイントになるのは、ヒラリー・スワンク扮する主人公の少女の変化を視覚的にどのように表現しているか、
という点でしょう。そうすると、おのずとヒラリー・スワンクに向けられたカメラのテンションとテクニックが目に
入ってくるわけです。
えらい回り道しましたが、『ベスト・キッド4』において、ヒロインの成長を表す物語上のピークはラストの格闘シーンですが、
視覚的なピークはプロムに誘われたヒロインが、ミヤギからプレゼントされたドレスを着て出かけようとするシーンで間違いない
でしょう。
あまり明るい採光を施していない部屋の中、白いドレスを着た自分の姿を鏡に映して見るヒロインに、ミヤギが「彼氏
が迎えにきた」と告げに行くシーンです。
ミヤギが部屋のドアを開けると、ドレッサーの前のヒラリー・スワンクが振り返ります。
それまで、着るものからして男っぽかっただけに、ドレスアップした姿がより彼女の女としての成長ぶりを強調させる、と、
ここまで書いて、いい加減うんざりしますね。この設定のあまりの安直さ、というかバリバリの図式ぶりに。
実際書くとうんざり
するんですが、見ている間は安直さや図式を忘れるんですよ。それはなぜか?
振り返ったヒラリー・スワンクのアップの画面が、
こっちが想像していた画面を大幅に上回ってるからなんです。
このヒラリー・スワンクのアップは、おそらくここ20年くらいの
アメリカ映画の中で最も美しいアップじゃないですかね。このワンカットだけで映画全体を軽く超えちゃっているんですよね。
とにかく現物をご覧下さいとしか言いようがないんですが。

女優に限らず役者の顔をどのように撮れば輝かせることができるかということは、よく考えるとそんなに特別なことじゃなくて、
映画の基本に属することですよね。だけど、ちょっとないがしろにされ過ぎていないかなと思うんですよ。
もちろん映画それぞれ
制作条件は違いますよ。コストをかけられない状況もあるでしょうし、アップに耐えられない顔を撮らざるを得ない場合だって
あるでしょう。だったらアップを撮らなければいいと思うんですよ。どうしても撮らざるをえないんだったら工夫すべきだと
思いますね。限られた条件の中で、どう撮るかを考えるのが大事なんじゃないかなと。それをさぼると作品のグレードが落ちて
いくだけです。
たとえば金をかけられないんだったら自然光でもいいじゃないですか。ライト1台しか無いって状況を逆手に
とって、見たこともない画面作るのでもいいと思いますよ。
とにかく人物にカメラを向けた瞬間に、その作品のグレードって
歴然とわかっちゃいますから、映画を撮る人はそこをさぼらないでほしいなと思います。ラズロ・コバックスの仕事を見て
勉強しろと。
なんの工夫もなく、ただ漫然と撮ってるとしか思えない画面を多く含んだ映画が平気で金とってること多いんで、
ついつい説教じみたこと言いたくなりましたが。
『コピー・キャット』のクライマックスに入る直前、警察内でホリー・ハンターが銃を装備しながら、同僚(昔の彼氏)
と短い会話をかわすシーンでの彼女を捉えたミドルショット、そしてラストカットのハリー・コックJr.のアップ、
この2カットは見逃さないでほしいです。
ディス・イズ・コバックス!というのはこういう部分のことを言って
いるんです。
前者は、暗く殺風景な警察署の室内と、ホリー・ハンターの顔の右サイド及び瞳にターゲットを絞った
ライティングのコントラスト、そして人物とカメラの絶妙な距離によって、これから始まるであろう犯人との対決へ
の決意、恐れといったものをワンカットで表現しています。めったに感情を表に出さない彼女の初めて見せる弱さみ
たいなものが、ほとんど一瞬にして表現されてしまうんです。
また後者のハリー・コックJr.のアップは、"光と影"とか
"濃淡"というわかりやすいイメージにあえて還元せず、薄暗いベタな画面で毛穴が見えるほど間近でその肌の色と質感を
捉えることによって、この変質者の底知れぬキャラクター、というより底の無さを体感させる、本当に見事なショットです。
さっき、人物にカメラを向けた瞬間に、その作品のグレードが歴然とわかる、と書きましたが、それはこの2つのショット
のような画面のことを指しているんですよ。品質保証マークみたいなもんですから。たとえこの作品が好きじゃなくても、
一発でレベルやグレードわかりますから。こういう画面はコストをかけなくたって、イマジネーションさえあれば撮ること
ができる画面だと思うんですよね。

『コピー・キャット』

『セイ・エニシング』
ポイントになるのは、やっぱり「背景夜ないし暗めで人物にピンポイント・ライティング」なんですよ。
ここで取り上げたラズロ・コバックスが女優を輝かせてきたショットは、『ベスト・フレンズ・ウェディング』
も『夜霧のマンハッタン』も『ベスト・キッド4』も『コピー・キャット』も『セイ・エニシング』も、
全て「背景夜ないし暗めで人物にピンポイント・ライティング」のバリエーションなんです。
で、どの部分に
ピンポイント・ライティングすれば女優が最も輝くかと言えば、それはもちろん"瞳"です。
では逆に瞳に光を
当てないと、どうなるのか?
「背景夜ないし暗めで人物の顔や瞳は極力ノー・ライティング」にすると
どうなるのか?
単純に考えれば、女優は輝きを失うことになります。
にもかかわらず、この映画のラストシーンに、ぼくは戦慄させられました。
実はちょっとエキセントリックなだけだったのに、
周囲の無理解と非寛容によって、奇行を繰り返していると思われ、虐げられ、あげくにロボトミー手術をされてしまった女優
フランシスが、唯一の理解者だったサム・シェパード演じるかつての恋人と再会するシーンです。
しばらく病院に入っていた
彼女は、復帰後、テレビの生放送番組に出演します。男はその番組を見て、あわてて収録している場所へ向かい、彼女の仕事が
終わるのを待つのです。
久々の再会。しかし彼女は感情を表に出さずに淡々と話します。昔は情熱的で周囲を嫉妬させるほどの
輝きを放っていたフランシスですが、ロボトミー手術によって社会と馴れ合うことはできるようになったけれど、同時に人間
として、女としての輝きを失ってしまったのです。
男は、彼女の昔の輝きを知るだけに悲痛な思いをします。
夜の舗道を並んで
歩きながらの途切れがちな会話、フランシスは立ち止まり男の方を見て話を続けます。この時のジェシカ・ラングを捉えた
バストショットにぼくは戦慄を覚えたんです。

『女優フランシス』
黒か茶か、どちらにしても濃度の高い色の服を着たジェシカ・ラングの体は、夜の暗さに溶け込んでしまい、
白い顔だけがぼんやりと闇に浮かんでいるように見えます。
そして、その瞳には…光が全くありません。
目が死んでいるのです。
これは生きている人間の顔じゃありません。
ラズロ・コバックスはこのカットで、
得意技である「背景夜ないし暗めで人物にピンポイント・ライティング」の真逆、まさに先ほど書いた
「背景夜ないし暗めで人物の顔や瞳は極力ノー・ライティング」をやっているのです。
グレーム・グリフォードの
演出がどんなにどんくさかろうが、ジェシカ・ラングの熱演がどれほどうっとうしかろうが、このバストショットの
衝撃は消せはしないでしょう。苦痛が伴うけれど、このラストシーンのワンカットのために『女優フランシス』は
必見の映画だ、と言っておきましょう。

『ペーパー・ムーン』