面白い映画教えます

▼マーク・レスターの通勤鑑賞日記
ALWAYS 三丁目の夕日

  

10月23日(火)

今作の鑑賞ポイントを

[ 「テレビ」の家庭進出 ]と

[ 「東京タワー」の完成 ]という

昭和30年代を象徴する現象としました。

この2つの動きは日本社会が発展し、豊かになっていくことへのシンボルではあるのですが、ボクはこの2つの現象が集約する、1つの社会学的な結果にこだわることにしました。この説明は後で行うことにします。

今作は、しょっぱなに昭和30年代の街を模型飛行機が飛翔していくCGを提示してきたのですが、この映像からして「貧しかったが、夢のある時代であった」という演出意図が見え透いてしまい、早速、拒否反応を起こしてしまったのです。

しかし、そんな矢先の「建設中の東京タワー」や「現役バリバリの都電」の映像には、「おっと、いーじゃん」と早くも軌道修正の兆し。
しかも、またまた、その直後に提示された「天井にへばり付いたヤモリが羽虫を捕食する」映像が、吉岡秀隆演じるところの「文学」の、鬱屈している心情を雄弁に語っており、大きな映画的興奮を得ることができました。

おもしろいことに、冒頭の6分で今作におけるボクの印象は、このように目まぐるしく変化していったのです。そして、それにともなって早くも冒頭の6分にして、今作をレビューする基本姿勢が決定されたのです。

「模型飛行機、飛翔!」
のような表層的な印象しか残せない映像に対しては毅然と

「NO!」。

「建設中の東京タワー」
のような、時代性を際立たせた冷静なる演出には

「OK 」。

「ヤモリ捕食」
にみる、独自の視点からの深層部にスポットを当てる映像には、ブートキャンプのビリー隊長のごとく

「VICTORY!!」。

で対応をしようと思ったのでした。

序盤は、冷静に再現していた「蒸気機関車」や「上野駅」の描写は「OK」。
「鈴木オート」の大激怒におけるお遊びは「NO!」。
淳之介少年が描いた空想科学小説へのワープは「VICTORY!!」
でした。

中盤以降になってやっと、ボクがこだわりを持った2つの現象が展開していきます。

「鈴木オート」を舞台とした[ 「テレビ」の家庭進出 ]のお祭り騒ぎはやり過ぎだとしても、昭和30年代の人々にとっての

“テレビ様”降臨

という事態は、戦後初めて訪れた「人類の進化」ほどの衝撃的な出来事であったのだろうと推測することができます。
なぜならテレビというものは、雲の上の存在であった「映像情報」を茶の間に引き連れて来た最初の利器であったわけで、この偉業によって、現代にみる

「情報化社会」を始動させた

巨大な存在となっていくからなのです。

その神々しさは「2001年宇宙の旅」の類人猿における「モノリス」のように、昭和30年代の人にとっては、21世紀人に進化するための崇めるべき存在であったのです。

そんな“テレビ様”がもたらした驚きや喜びを表現するために、監督が繰り出した幾多の「NO!」の洪水にうんざりした後に「VICTORY!!」なカットを見つけることができました。

それは、皆でプロレスを鑑賞しているうちに、その小さな画面が突如として映画のような大画面となるカット。

この処理は、「映像情報」が家庭にやって来たことの強烈なインパクトの直感的なビジュアル表現であることは一目瞭然なのですが、巨大な画面に即応し、一喜一憂する彼らの姿を見ていると、これ以降、テレビの持つ巨大な影響力に踊らされることになる、

我々、人類の愚かさ

を描いているように思えてなりませんでした。

一方的に提供される「映像情報」に釘付けにされ、独占され、操作され、最後には支配されていく未来を予見させる映像だったのです。

しかし、この「映像情報」にたやすく接触できるようになったことが、現代に見る「情報化社会」を始動させ、急激に拡大させていったのだと思うのですが、この「情報化社会」の拡充こそが、

“効率性”や“合理性”

という概念を様々な局面にもたらし、昭和43年にGNP世界第2位の物質的豊かさを、手に入れる原動力になったのだろうと思い、その効能についても思いを巡らせたのです。

が、しかし、結局は、これらの概念が幅をきかせ過ぎ、偏重されてしまったことによって、周知のとおり

熾烈な「競争社会」

をも形成してしまったわけで、「三丁目」が美徳としていた“人情”とか“思いやり”とか言うものは、他者を蹴り落とし“勝ち組”となる、この「競争社会」では時代遅れなものとして、顧みられなくなってしまったのです。

テレビの登場を喜び勇んだ「三丁目」が、そのテレビに格納されていた“効率性”“合理性”というウィルスによって滅亡の道を静かに、しかも確実に突き進んでいってしまったことは、何とも、皮肉な話しではないでしょうか。

テレビの弊害についてもう一つ書いてしまうと、江戸時代の寺子屋から始まって、国民学校を経て、戦後民主主義教育の成果によって文盲率が驚異的に低かった日本社会ではありますが、今後、無料で大量提供される娯楽としてのテレビが読書率を下げ、低俗番組による悪影響をとりざたされて、

「一億総白痴化」の元凶

と名指しされていくのです。

この流れは「IT社会」の申し子であるパソコン、そしてインターネットの台頭で、一層の活字離れや識字率の低下へと繋がっていったのです。

話しを本題に戻しますと、プロレスの最中、突如として登場したあの大画面は、テレビが与えた当時の人々への巨大なインパクトをあらわすと同時に、「競争社会」や「一億総白恥化」という将来的に人類が受けることになる

甚大なる被害

を表現したと感じたのです。

製作者のこのシニカルな目線を評価し「VICTORY!!」との声を上げたのでした。

母を訪ねて三千里や、実父による引き離し、初の帰郷など、お涙頂戴的な「NO!」の数々を経てのラストシーン。
各々の人間が、各々の場所で、各々の事情を抱えながら、1点を見やる、この終息に「VICTORY!!」の称号を与えることにしました。

彼らが見ていた一点。それが、夕日に映える[ 完成した「東京タワー」 ]。

「東京タワー」は夢多き時代の象徴となる建物であり、この[ 「東京タワー」の完成 ]という出来事は、日本がさらに、夢の実現に近づいたことを示し、今後、一層の経済成長が彼らを待っていてくれるという希望の持てるカットだったのです。

今作はこのように前向きな気持ちと情緒的な余韻を含みながら終わりを告げていきました。

が、しかし、[ 「テレビ」の家庭進出 ]を皮切りに「競争社会」や「一億総白痴化」という話題を提起してきた者としては、このラストシーンには複雑な気持ちをいだかざるを得なかったのです。

それは、「東京タワー」の正式名称を思い起こせば理解して頂けるかと思います。

「東京タワー」の本名とは.....,

そう。「日本電波塔」......。

俗称「東京タワー」と言うこのしろものは、その名の通り、本来はテレビ電波を送信するために建設された建造物だったのです。

そんな「東京タワー」の完成が意味するものとは、テレビという媒体が確実に各家庭に侵入することができるように仕組んだ、インフラの構築に他ならなかったのです。
彼は、「日本電波塔」の本性をひた隠しにし、「東京タワー」という猫を被って被支配者層の懐に潜入し、[ 「テレビ」の家庭進出 ]をシステム的にバックアップするという任務を粛々と実行していったのです。
まさに「Good Job !!」だったわけです。

テレビは「日本電波塔」の任務遂行のお陰で、首都・東京を傘下に収め、これ以降、電機メーカーと結託をしてテレビ受像機のコストダウンや、カラー化などによって、いよいよ、深く家庭に割って入り、その影響力を増大させていくのです。

紋切り型の言い方ではありますが、

[ 「テレビ」 の家庭進出 ]と

[ 「日本電波塔」の完成 ]による

「情報化社会」の目覚め


副作用「競争社会」の発生


豊かな人間関係の消滅

という方向性によって「三丁目」を内部から崩壊させ、「1億総白痴化」の負の力によって、日本社会の軽薄化が促進されていった、そんな図式を認識することができると思うのです。

そのことを踏まえると、今作のラストシーンは、主人公達と我々視聴者に、「東京タワー」で希望にあふれた未来を予見させるとともに、裏の素顔である「日本電波塔」の側面によって主人公達の古き良き社会が壊れていく萌芽をも同時に目撃させていたのです。

まとめますと、今作は昭和30年代の人情と「時代の夢」を描いときながら、その「夢」が引き連れる副作用が元凶となって、そもそもの美徳であった「人情」そのものが崩壊し始める。そんな皮肉な瞬間を描いた映画、であったとボクは受け取りました。

また、今作のレビューの冒頭で提起した[ 「テレビ」の家庭進出 ]と[ 「東京タワー」の完成 ]というが集約していく1つの社会学的な結末とは、今まで述べてきた通り、テレビという媒体が強固になることによって成される、古いコミュニティの解体と、「人情」というコミュケーション様式の終焉を意味していたのです。

今は平成19年。“テレビ様”もYOU TUBEやMIXIを初めとするインターネット攻勢によって、その影響度を急減。 地デジやワンセグという巻き返し策があげられてはいますが、しかしこのシステムの更新によって333mしかない「日本電波塔 はその使命を終えて、より高さを有する「新・日本電波塔」たる「新・東京タワー」の計画が浮上。これによって「東京タワー」は誕生50年にして初めて、純粋に「東京タワー」の側面として存在していくことができるのです。

今作は昭和30年代を回顧することで、その時代性を認識することができたわけです。もしかして、現代の、この時代を回顧する映画が将来的に製作されるようなことになれば、この今という時が、「古き良き平成10年代」の最後の時代であった。ということになるのかな? と、思いつつ、今作の鑑賞を終えたのでした。