▼マーク・レスターの通勤鑑賞日記
海の上のピアニスト
10月18日(水)
今作の鑑賞ポイントを
「“1900”にとって、あの“乗客船”とはどんな存在であったのだろうか?」
という1点に絞ってみました。
生まれて間もなく豪華客船の一等社交場にあるグランドピアノ上に置き去りにされて以来、一歩も地上に降り立つことなく船の中で成長した彼は、27歳の時にこの映画の語り部“コーン”と出会います。
成人した時点で、彼にとってのあの乗客船は寝起きをする“生活”の場であり、文字やピアノを覚えた“学校”であり、唯一の“故郷”でもあり、そしてピアニストとして従事する“職場”でもあったのです。
やがて、異性の存在を認識したことをキッカケに下船の意思を表明。しかし、異常なまでの反応を示しながら、彼は下船の意思を一転して翻すのです。被っていた帽子を海に投げ捨てて、地上に一歩も足を踏み入れる事も無く、船のタラッブを再び上っていく彼の姿を見て、彼にとってのこの乗客船とは“生活の場”“学校”“故郷”“職場”とは違う存在となっていることを確信しました。
「下船をしない」という意志を、外出時のたしなみとして必要となる“帽子”を投げ捨てることで表現したことから、「今後はいっさい、外出(下船)せずに“内”(船)にこもる」 ことを宣言していると感じたのです。
あの巨大な船を“内”として認識し、それ以外を“外”とした関係性は巨大船全体を、社会の最小単位で、最も緊密な
“家族”というコミュニティ
として認識した結果ではないかと思ったのです。(後ほど、この考え方は行き詰まりますが.... )
一時の下船の意志は、思春期における反抗期と家族からの巣立ち・独立が重なり、しかし、未知なるものへの恐れと、家族への過度な依存の為に下船を諦めたと、たかをくくっていたのです。しかし、何年もの月日が経ち、この船の管理者が変わり、旅客船から病院船という形態を変えても、彼はどこかの隙間に潜り込み、永き時間に渡り船内で生き続けていたのです。
そのことを知るに至って、あの巨大船は彼にとっての“家族”程度のものであっては、この行動を理解することは不可能だと思い始めてしまったのです。
終盤、彼は“コーン”に下船断念の理由を
「理解を超えた“広がり”に対する恐怖」
であったと告白しますが、そこで、また、新たな考えに行き着きました。
あの巨大船は彼にとって、“故郷”や、“学校”、“職場”、ましてや“家族”なんかの第三者的な存在では無く、彼と全く同一な存在となっていたのでないだろうか? と。
あの巨大船が、彼の知識や技術をコントロールすることができる唯一の“広がり”であり、それ以上の“広がり”を決して容認することができないとすれば、あの巨大船は彼の認知できうる世界そのものであり、彼の知識・経験の全てを余すこと無く1点に集約した器官である、
“彼の脳”となっているのだ!
という突飛な考えが浮かび上がりました。
船と彼が別の存在であれば、下船は不可能ではなかったのでしょう。しかし、あの船が [彼が理解できる全ての範囲=知的世界] となっている点から、他にその代用品を求めることができない “脳細胞” を破棄することなどできなかったわけで、それだからこそ、あの船に留まらざるを得なかったのだと納得したのです。
しかし、物議を醸し出すあのラストだ......。
彼があの船に殉じる理性的な理由は、一体どこにあるのだろうか!?
前述の“脳器官”という理由づけも、彼自身の生命を超える重さがあるとは思えない。
はぁ〜、また、卓袱台がひっくり返されてしまいました。
様々に逡巡したあげく、ここにきて、ギブアップ直前にまで追い込まれてしまった。
しばし、クールダウンしながら、他の方のレビューを俯瞰していたら、
あった!!
アホをどり さんという方が書いたレビューの1節
「多分、お母さんのお腹から出て行くのが怖かったんだろう」
に頭をガツンと殴られた。
注意! これ以降、SF的な妄想の世界に私の理性は埋没していきます。
「船は“母体”だったのだ。」という考えに自分の感性と理性は、ようやく合意点に達しました。
彼は未だ産まれて来てはいなかったのです。
ピアノの上に置き去りにされて以来、彼の“生”は始まっているかのように感じてしまっていましたが、外界という社会に未だ、彼は本当に生まれてきてはいなかったのです。
彼はずっと船という“胎内”にいたのです。
一番守られた場所である、“子宮”に留まり続けていたのです。
子宮内にいる“胎児”にとって、同一存在である“母体”の消滅が意味するところとは?
答えは歴然だ。
納得がいった。
異論があるのは重々承知の上ですが、僕はこの映画を勝手に「SF観念映画」であったと、断言をさせて頂きます。